美浜での、あの4年間があったからこそ、 『さんてつ』を描き上げることができた。

吉本浩二さん
漫画家
吉本浩二さん
富山県生まれ。1996年3月、日本福祉大学社会福祉学部第Ⅰ部卒業。手塚治虫氏が遺した不朽の名作「ブラック・ジャック」の制作現場を関係者の証言で綴ったマンガ・ノンフィクション『ブラック・ジャック創作秘話』で、宝島社「このマンガがすごい!2012」オトコ編で1位を獲得した注目の漫画家。代表作に、東日本大震災発生からわずか5日で運行を再開した三陸鉄道を題材にした『さんてつ』、『日本をゆっくり走ってみたよ~あの娘のために日本一周』、『日掛け金融地獄伝 こまねずみ常次朗』などがある。

日本福祉大学へ入学を決めた理由を教えてください。

 高校時代は野球の強豪校でピッチャーをしていました。高校3年生の時に肩をケガしてしまい、治療で理学療法士にお世話になったことが、理学療法士を志す動機となり、日本福祉大学へ入学するきっかけにもなりました。患者となる選手の思いを汲み取りながら、復帰に向けた治療・サポートにあたる理学療法士の働く姿がとても魅力的だったからです。実際に、エクササイズ指導やプランニングを具体的に提示してもらい、継続的なリハビリテーションを行ったことでピッチャーとして再びマウンドに立つことができました。理学療法の凄さを知ったこの実体験が、今の私に繋がっていると思います。大学への進学にあたっては野球部監督とも相談を重ね、得意の野球で進学するのではなく、理学療法士を目ざした進学を決意。スポーツ分野の理学療法を学べる大学を探していたところ、日本福祉大学であれば「スポーツ理学療法」が学べると知り入学を決めました。

漫画家としての現在までの歩みを聞かせてください。

漫画家になろうと決意した直接のきっかけは、大学卒業後に就職したテレビの制作会社での出来事。映像を撮影する前に、絵コンテというイラストで描いたシナリオのようなものを創るんですね。その業務を僕がやっていると、上司や同僚が「上手いなー。そっちの道に進んでもやっていけるんじゃないか」と言ってくれて。もともと、子どもの頃から絵を描くのが好きで、大学進学を考えるときも、美大という選択肢も検討したほどだったのです。当時は大学に行ってまで専門的に絵を学びたいというほどの強い意志はなく、その道に進むことはありませんでしたが、まわりの人から評価してもらったことで、改めて自分は絵を描くのが好きだということを再認識することになったんです。実際に大学時代には、8ミリビデオで映像作品を創ることに夢中になっていて、やはり心の奥底には何かものづくりをしたいとか、それを通して自分を表現したいという思いがあったんでしょうね。そういった経緯もあり、思いきって会社を辞めて漫画家をめざすことにしたのです。

漫画家としての現在までの歩みを聞かせてください。

何のコネクションもなかったので、まずは出版社などが主催している賞に自分の描いた漫画を送るということからはじめました。運よく、最初に送った漫画が入賞し、出版社の方が僕の担当としてついてくれるようになったんです。驚くほど順調な滑り出しだったので、僕も淡い期待を抱いていたんですが、この世界はそんな甘いものではありませんでした。アルバイトをしながら漫画を描く日々が続きました。もちろん、もう漫画家をやめたいと思ったことも多々ありました。ただ、日本福祉大学という福祉の大学に進学したにも関わらず、親の反対を押し切って東京のテレビ制作会社に入社して、さらにそこも辞めて漫画家になると決意したわけですからね。そう簡単に諦められないという思いもありました。最低でも30歳までは頑張ろうと。それから3、4年が過ぎた頃でしょうか。様々な葛藤を抱えながらも、何とか漫画を描き続けていると、少しずつですが連載の仕事が入ってくるようになってきたんです。生活も安定してきたので、アルバイトも辞めて、漫画を描くことに集中できる状況にはなりました。ただ、それでも自分の中で漫画家としてやっていけると自信が生まれたのは、連載が単行本になって2、3巻ぐらいまで出版されてからですね。連載を続けるということが本当に難しいんです。人気がなくなればすぐに打ち切りになるシビアな世界で、そんな作品をこれまで数多くみてきましたからね。もっと長い下積み時代を経て、ようやく漫画が世に出たという漫画家さんもたくさんいますし、そう言う意味では、僕は恵まれていたのだと思います。

東日本大震災という非常に難しいテーマにも挑戦されましたね。

東日本大震災からわずか5日で運行を再開した三陸鉄道を題材にした漫画を描かせていただきました。出版社の方からこの仕事の話があったとき、正直受けるかどうか本当に悩みました。僕は東北の出身者でもありませんし、ましてや被災者でもありません。そんな部外者がこの大震災を描いていいのだろうかと。ただ、そこで迷っている私の背中を押してくれたのは、被災者のある言葉でした。この話をいただいたとき、まずは自分の目で被災地を確かめたいとの思いから、一人で東北に向かったんです。被災者の方々は本当に親切で、突然訪れた僕にも丁寧に話をしてくださいました。そしてこんなことを言っていたんです。「興味本位のヤジ馬でも大歓迎ですよ。私たちはできるだけ多くの人にこの被災地に来てほしいんです。そして、ここで起こったことを、この光景を目に焼き付けていってほしいんです」と。それを聞いて、僕はこの大震災を漫画という形で記録することに大きな意義があるんじゃないかと強く感じて、この仕事を引き受けることにしたんです。作品が出版された後に、三陸鉄道の方々から御礼の文面が届いて、そこには社長をはじめ登場いただいた社員の方々がこの作品を読んで涙を流してくださったとあったんです。それを見て、この作品を描いて本当に良かったと心から思いました。

日本福祉大学で学んだことで今に活かされていることは何ですか。

 具体的な例を挙げるのは難しいですが、福祉を学びたいという志を持った学生たちや教職員が創り上げている日本福祉大学という環境の中で4年間過ごしたということは、少なからず今の僕に影響を与えています。僕が入学して最初に感じたのは、こんなに心根の良い人たちがいるんだということ。他者への気遣いが当たり前のようにできて、意識せず常に福祉の視点を持って生活しているんです。そういう仲間たちと過ごすうちに、自然と同じような視点が芽生えていくのでしょうか。さらに、老人福祉施設などでの実習を通して、今、日本が直面している現実を垣間見ることができたのは、大きかったと思います。実際、『さんてつ』を描くときには、大学時代に得た福祉の知識が大きく役立ちました。福祉の現場でもそうでしたが、被災地の方々は努めて明るくしようとするんです。このような共通項があったからこそ、踏み込んだ取材ができたのかな、と思います。さらに被災地で取材しているときに感じたのですが、どこか美浜の風景とオーバーラップするんですよね。街の匂いというか、そこに住む人たちのお節介ぐらいのあたたかさだったり、ゆったりと流れる時間だったり。津波が襲う前の人々の暮らしが容易に想像できるんです。もし、僕が東京の大学に進学していたら、きっと『さんてつ』をここまでの完成度で描き上げることはできなかったんじゃないでしょうか。

最後に同窓生にメッセージをお願いします。

 今年、宝島社の「このマンガがすごい!2012」オトコ編第1位に選ばれて、漫画家としての僕を取り巻く環境も大きく変わってきました。ただ、注目されたからといって、正義のヒーローが活躍する壮大なストーリーを描くつもりはありません。そういうのは僕の柄でもないですしね(笑)。僕はこれまで手掛けてきたようなキャラクターしか描くことができないですし、やはりそれを描きたいのです。「地球を守る」という大義名分もなければ、皆の憧れになるようなインテリジェンスや派手さもない。でも、毎日を懸命に生きている。そんな人物を描き続けていきたいと思っています。やる気を引き出したり、元気づけたり、僕の作品を通して、ほんの少しだけでいいので読む人の心を動かすことができたらいいなと。きっとそれが、紆余曲折しながらもたどり着いた僕なりの福祉に対する答えなんだと思います。

吉本浩二氏 代表作紹介

さんてつ
『さんてつ』
(新潮社)
日本鉄道旅行地図帳
三陸鉄道 大震災の記録
ブラック・ジャック創作秘話
『ブラック・ジャック創作秘話~手塚治虫の仕事場から~』
(秋田書店)
(2012年8月11日発行 日本福祉大学同窓会会報109号より転載)